| 片岡冨士子先生を偲んで | |||
| 1999.01.24. | |||
| 今日(24日)、豊中市民会館で「片岡冨士子先生を偲ぶ会」があり、教え子の一人と して参加した。 | |||
| 普通、「偲ぶ会」というのは明るい会合ではない。でも、私はこの集会から、新たな 力をえようと思って参加した。 | |||
| 集会では、教え子、元同僚など6人が発言された。発言の度に、拍手が鳴った。参加 されたすべての方も、生きていく新たな力をえたような集会だった。 | |||
| 私の片岡との出会いと思い出は、すでにこの「ひとり言、98年10月24日」に書 いたとおりであり、この後で再掲するが、これに付け加えるものはない。ただ、今日の 集会で聞いたこと、感じたことを簡単にまとめたみた。 | |||
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| 先生は、詩を朗読しては「胸がキュンとせんとあかんよ」と感動を教えてくれたくれ た人だった。生徒が授業をさぼっているのを見つけると、「あんた、なんね」と、広島 弁で厳しく叱ってくれる人だった。教師の間では、体罰はダメと若い先生にきちんと指 導できる人だった。原爆の体験を自らかたり、平和と人間の尊さを教えてくれた人だっ た。美しい反原爆歌「死んだ女の子」を習って、いまでも覚えていますと、続いて開か れた同期の二次会で歌う人もいた。できる子にも、できない子にも、どの子にも目の行 き届いている先生だった。先生のやり方に反発していたが、修学旅行の時に、先生から 教師としての悩みをうち明けられ、なんで子どもの私にまでと、感激した人もいた。 | |||
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| 私の、先生についての中学2年という短い1年間での記憶は下に書いたとおり少しで ある。忘れてしまったのか、それともつきあう時間が短かったからなのか。でもそれだ けに、今日の集会で、書き切れないくらいの先生についての新たな発見をした。そのこ とを同期だけの2次会で話した。すると片岡先生と仲の良かった先生から厳しく云われ た。「堀田君。片岡先生が、あなたの中学校の時のことをいつでも誉めていて、平和の こと、民主主義のこと、政治を良くしていくことで、どれだけあなたに期待していたの か、知らなかったのですか」と。もちろん私は、片岡先生が私を信頼し、死ぬまで推薦 者として名前を使ってと、云われて来たのはよく知っています。けれど、当時の事をあ まり覚えていないんです。ごめんなさい。とても残念です。でも、それだけ、片岡先生 は子どもたち1人1人を本当によく見ていたんでしょうね。 | |||
| 集会の閉会にあたって、誰も「安らかにお眠り下さい」とは云わなかった。先生が、 いつまでも私たちの心に生きているからだろう。 | |||
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| ひとり言、1998年10月24日記 | |||
| 昨日(10月23日)、中学校時代に国語を習った片岡冨士子先生が肝臓ガンのため 68歳で亡くなった。私も昨夜、先生のマンションに駆けつけた。1人暮らしの先生の 自宅は、親戚の方は2人だけだったが、元同僚の先生と51歳から20歳代にわたる教 え子が30名ほど集まり、いっぱいだった。 片岡先生との出会いは1966年4月のことである。4月8日の始業式の日には、担 任の先生は国語の天野先生だった。天野先生は、授業中、漢字の読み方を突然、クイズ に出す面白い先生で、広島の被爆者だった。 次の登校日の4月11日の月曜日には、担任は社会の美濃先生に変わっていた。天野 先生が広島に残していた両親の面倒を見るために、急遽、転勤されたためだった。代わ りに国語を教えるために、広島から転任されてきたのが片岡先生だった。 片岡先生も被爆者だった。当時31歳。美しい人だったが、顔に原爆の傷がかすかに 残っていた。先生の特長を抽象的に述べれば、とても、聡明、情熱的、なによりも優し い人だった。私が、多分、はじめてあこがれを感じた女性だったと思う。 残念ながら、具体的なことはあまり覚えていないが、次の2つのことはずっと大切な 思い出として、大事にしてきた。一つは与謝野晶子の短歌を習った時のことだ。先生は 遠くを見るようなまなざしで「清水へ 祇園をよぎる桜月夜 今宵会う人 みな美しき 」と生徒に歌って聞かせた。そして先生は「晶子は桜月夜をはなづくよとと読ませてい ます」と解説した。私は国語が大の苦手だったが、その時、文学の深い世界を垣間見た ような気がした。 それよりさらに忘れられないことは、先生にノートを提出していたことだった。回数 は週に1度か、2週に1度かはっきり覚えていないが、何度も先生にノートを提出した。 思春期で、字が下手で、ノートを取るのがずぼらな私にとって、ノート提出は、とても 苦痛だった。先生にとっては国語の生徒全部だから、約200人ぐらいのノートを見る ことになり、大変な作業だっただろう。でも、先生は私のノートにも赤ペンのきれいな 字で、いつも誉め、励ましてくれた。そのうち私は、先生にもっと誉められたいと願う ようになり、ノートをちゃんと取るようになっていた。 先生に教えを受けたのはこの1年だけだった。その後、合う機会があまりなく、よう やく卒業後24年で開始された学年同窓会で再開した。1学年で670人。同窓会は4 年に一度で、毎回、参加者は100人を越える。同窓会で個人的に親しくお話しできる ゆとりはない。同窓会でマイクを握ってあいさつされる先生の言葉は、いつも「4年後 の同窓会には多分出られないでしょう」だった。先生は15歳の夏に広島で被爆された ときから、死を見つめながら、懸命に生きてこられた。そのひたむきさは、中学生の時 の私にも、十分、理解できた。でも、その先生が60歳を過ぎて「4年後は」と繰り返 されると、「先生。4年後も同じことを言って下さい」と、みんなではやしたものだっ た。 今年3月。私は先生を箕面市民病院に訪ねた。4月の豊中市長選挙に私が立候補する のに際し、先生に応援をお願いするためだった。先生はすでに末期ガンに冒されていた が、ベッドの上に正座して、私を迎えてくれた。先生は私の顔を見て、堰を切ったよう に、同和教育を一刻も早くやめさせて欲しいと訴えられた。先生がなぜ同和教育に批判 をもたれるようになったのかは聞けなかったが、私も同和教育に大きな異論を持ってい たところであり、先生の意見に大いに励まされた。 先生は、市長選挙の投票日の3日前に私に次のメッセージを送ってくれた。「堀田さ んとの偶然ともいえる出会いは、教科担任としての1年間だけでしたが、30数年経た 今も、鮮明な印象として残っています。1つはどんな些細なことにも、真剣に真正面か ら取り組む、真の優しさ。いま1つは、たとえ自分に不利になるような場合でも、大勢 に流されない清さ、鉄の意志。この2つの魅力に引かれた私は、この人の将来を見届け たいと思った一年でした。 その後お会いする機会があまりなかったのですが、市長選挙出馬に当たってあいさつ にこられ、やっぱり、私の期待したとおりの人だったと、あらためて思いました。私は 堀田さんを、心を込めて応援します。」このメッセージを書くのに先生は1ヶ月以上、 苦闘されたそうだ。元気なときの先生なら、文章を書くのに苦労をされるはずはないの に。私は先生のメッセージを、このうえない応援と思った。 この10月8日に「がんばれ文ちゃん。堀田文一を励ます集い」が開かれた。この「 集い」の案内の世話人に、私は先生の名前を拝借することを遠慮した。案内を見られた 先生は「生きている限り私の名前を使って欲しい」と友人を通じて伝言された。これが 片岡冨士子先生から私への遺言となった。 片岡冨士子先生の思い出を、かけがえのない思い出として、私はいつまでも大切にし ていきたい。 1998年10月24日 |