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| みなさん。ご支援、ご声援ありがとうございました。おかげさまで4年間も道草を食い ましたが、ようやく大阪府議会に行けることになりました。もちろん、選挙は、勝つこと によってスタート台にたつことになります。公約実現の活動がはじまります。今後ともよ ろしくお願いします。 ところで、これまでの「ひとりごと」はひとりごとをいうてる立場ではなくなりました ので、これまでで終結させていただきます。コーナーの新たな名前は「堀田文一の府議会 日記」です。事務的なことだけでなく、率直な感想も随時盛り込みたいと考えていますの で、よろしくお願いします。 | ||||
| 1999.02.05.午後9時26分 | ||||
| ここ2,3日、猛烈に寒く、今日の服部駅でも頭の上に雪が積もりました。でも、3月 になれば必ず春になる、当たり前の話です。しかし、日本をおそっている不況の冬は、自 民党政治が続く限り、いつ終わるともしれません。一番寒いときだからこそ、経済の面で も春を呼び込むためにがんばります。 今日は私立高校の受験日で、服部駅では大商学園の受験生に出会いました。みんな緊張 した面もちで駅からおりてきました。私も36年前はあんな感じだったんでしょうね。私 はマイクで受験生のみなさんに、「がんばって合格して下さい。私学助成は、あじさかさ んと府政を革新し、必ず守ります」とお話ししました。 「事務所開き」は2月21日ですが、事務所は活動を開始しました。朝9時半から夜9 時までは誰かがいますので、ぜひ、ご近所に来られた際は、お立ち寄り下さい。 | ||||
| 1999.02.02.午後8時39分 | ||||
| このたび、自宅とは別の場所ではじめて事務所をつくりました。 思い返すと、24年間の私の政治家としての日常活動とともに、連続当選ができた市会 選挙5回、敗れた4年前の府会選挙と昨年の市長選挙、いつも自宅が事務所であり、戦場 でした。私の3人の子どももこの戦場ですなおに、育ってくれました。 自宅が事務所というのはとても便利なもので、経済的でもあり、家族の誰かが留守番を していると思えば人手いらずでもありました。あえていえば、昔の共産党風でしょうか。 しかし今度は外で借りました。共産党がもっともっと外へ外へと出て行くべき時、そし て政治を転換して不況を打開すべきいま、いつまでも自宅でチマチマというわけにはまい りません。勝負をかけるという思いで事務所を借りた次第です。 駅からすぐ、国道からも電車からもよく見える場所。私のふるさとでもあります。室内 のクロスはボランティアでやっていただき、とても明るくきれいと自画自賛しています。 そこで早速「事務所開き」をさせていただきます。2月21日(日)朝10時半〜11時 半で、地図と連絡先は私のホームページにのせています。お手すきの方、お近くの方は、 ぜひ、ご参加をお願いします。 なお、カンパをいただける方は次のいづれかの郵便振り込みをご利用下さい。
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| 1999.01.24.午後8時26分 | ||||
| 片岡冨士子先生を偲んで | ||||
| 1999.01.17 午後10時28分 | ||||
| 今日、阪神大震災4周年を迎えた。 大震災の直後には次の関西の大地震はいつ頃かという議論がずいぶんありました。それ が最近あまり目立たないように感じ、とても気になります。 とくに先日、ある方から「わしの目の黒いうちは地震はきまへんやろ」と云われ、ぞっ としました。 地震は震源地ごとに周期があります。阪神大震災の震源地で今度起こる地震は千年〜1 万年後のことですから、当分大丈夫と、当然言えます。しかし、和歌山県沖の南海地震は 50年〜100年周期で、前の地震からすでに50年以上経過しましたから、今、関西地 方は年々大地震に近付きつつあるといっても過言ではありません。 「災害は忘れた頃にやってくる」という名言は、2度と通用させてはなりません。一刻 も早く、府会議員になって防災の仕事に力を入れたいと思いました。 | ||||
| 1999.01.16. 午後10時39分 | ||||
| 明日、阪神大震災4周年 地方議員は4年に一度年を取る。何よりもの命の洗濯の機会である選挙が、ちょうど4 年に一度だからだ。 4年前の今頃は府会選挙初挑戦に向け、とても忙しく走り回っていたときだった。その さなかに阪神大震災が起こった。私はただちに日本共産党豊中市委員会震災対策本部をつ くり本部長として被災者救援に従事した。その時の模様は拙著「豊中の阪神淡路大震災」 に記しているので割愛する。ともかく、日を経ずして府会選挙となり、私ははじめての落 選を体験した。 それから、4年の歳月が経過した。今、改めて阪神大震災を振り返ると 1923年の関東大震災は「大地震」ではなく、やはり「大震災」である。なぜなら、 10万人近い犠牲者の大半が、地震そのものではなく、地震後、火災から避難した場所で 死亡したからである。誘導ミス災害というべきなのだろう。 1995年の阪神淡路大震災は、やはり「大震災」なのだと思う。たしかに、約600 0名の死者の大半は、地震直後に家の倒壊によって犠牲となったものだが、倒壊していな ければ犠牲にはなっていなかったはずだ。なぜ、かくも簡単に家が壊れたのだろうか。震 度のせいにするより、日本の(一部の)家屋が発展途上国なみに、ばたばたと倒れたという 社会的現象に思い至るべきなのだろう。 今日から何回か、阪神大震災を振り返って書いてみたい。 | ||||
| 1999.01.15. 午後9時35分 | ||||
| 正月3が日は時間に余裕があって、毎日、ひとり言を書けたのですが、4日以降はもう 「選挙本番」のつもりで走りはじめたこともあって、たちまち書けなくなりました。新年 会ラッシュもありましたし。で、ようやく新年会も山を越したので、久しぶりにひとり言 をお送りします。 去年は○○、今年は△△の決意シリーズ 去年は禁煙、今年は禁酒(ほんまかいな) 去年は前進、今年は勝利 去年は自民党、今年は共産党 去年は50,今年は51(私の人生、まだまだ半分です) 去年は「ガンバル通信」、今年は「府議会報告」 ではまた | ||||
| 1999.01.03. 午後8時18分 | ||||
| 正月3が日は今日で終わり。だから、ひとり言の毎日更新も、今日で休憩になるでしょう。 さて、今日3日は、まず5時に起きて、赤旗新聞日刊紙の配達。正月休みの方のピンチ ヒッターでした。 9時に蛍池駅に集合して、千里川源流ハイキングに出発。参加者は11名。禁煙以来、 体重がさらに3kg増え、肥満が進行。肥満を解消したい。とくに、正月という最悪の環 境を減量で突破したい。ハイキングしかない。しかし、一人でハイキングに行けば遊び。 そこで、みんなで行けば仕事というわけで計画した次第。 コースは手近で、滅多に行ったことがないところで、コースが面白くて、たっぷり歩け て、きつすぎない、などの相反する条件のすべてをみたした理想的なコースを組みました。 まずは、蛍池駅から蛍池中町、南町をとおって箕輪小橋で千里川にご対面。そこから果 てしなく千里川をさかのぼる。川にはハス、鯉、フナなどの魚。それをあてにするサギ、 鳩、セビロセキレイなどの鳥。道沿いにはサザンカや椿の花。街の中にもいっぱい自然が ありました。11時半に箕面市白島の永寿園に到着し、昼食とトイレ休憩。ここまでで1 万4千歩。ほぼ平坦地でしたから8kmほどでしょうか。 12時からいよいよ千里川の源流探査。千里川と思えぬほどきれいな清流を上っていく と、1時頃に最初の1滴ならぬ、最初の水たまりに出会いました。この写真ではよくわか らないでしょうが。 そして2時に政の茶屋について記念撮影。 そのあと、自然研究路という超アップダウンコースをたどりながら箕面の滝を経由して 4時に箕面駅到着。計画通りの理想的なコースでした。 そのあと家で、まずは休肝日。今日は厳粛な減量開始デー。禁煙を横道にそらせないた めに、がんばります。そして、このメールを「がんばれ文ちゃん」の編集長に送、今日中 に「堀田文一ガンバル通信27号」を仕上げるというのが、私の正月3が日でした。
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| 1999.01.02. 午後8時36分 | ||||
| 今は2日の夜、CDを聞きながらパソコンに向かっています。 今日の午前はガンバル通信の原稿書きをする予定だったのですが、東京〜箱根駅伝を見 てしまい、筆が進みませんでした。で、テレビを見ながら感じたこと。選手のみなさんは 一歩一歩は実に軽やかで、私にもできそうなんですね。でも、それを20km以上にわたっ て続けるということは、やっぱりたいへんなんですね。そこに、私たちをテレビに釘付け にしているドラマがありました。「継続は力」といいますが、どのくらい継続できるかも 力によって決まるということでしょうか。それと、アナウンサーがしきりに、「波乱、戦 国、下克上の東京箱根駅伝」と繰り返していましたが、最近活躍していた神奈川大や山梨 学院大が苦戦しているのを見ていて、なるほどと思いました。「栄枯盛衰常ならず」とい うところでしょうか。 午後は毎年恒例の高校の同期会新年会に四年ぶりに参加しました。司会の方が「同窓会 は政治にタッチしないものです」といいながら、「同窓会でものをいうのは自由です」 「同期生の国会議員(新井将敬氏)が亡き後、期待を託せるのは堀田文一さんしかありま せん」と、たくみに発言の機会をつくってくれ、私もみんなの絆の中で生きていることを 再認識しました。また、これまで日本経済の花形産業といわれきた大企業の中で、苦労さ れている同級生の話を聞いてとても勉強になった一日でした。 | ||||
| 1999.01.01. 午後6時18分 | ||||
さて、ちゃんとしたごあいさつはこの3が日のうちにつくるはずの「堀田文一ガンバル 通信27」に掲載し、このHPにも転載される予定です。取りあえず、この「ひとり言」 では、私の正月日記を書かせてもらいます。 昨年は、私にとっては波瀾万丈の年でしたが、仕事も12月31日の午後12時まであ りました。それで新年の仕事始めはというと、今日、1日の午前0時から。つまりは昨年 から今年にかけて、原田神社の鳥居の前で、参拝客にごあいさつをしたという次第。深夜 の1時15分までいました。寒いのは当たり前ですが、知っている人からも、知らない人 からも声をかけられてうれしかったですね。 その後は家に帰って、もちろん寝ました。そして、朝食は家族5人でなごやかにすませ ました。本来なら6人なんですが、二女がオマーンに石油ではなく、岩盤を掘りに行って はじめての一人足らない正月になりました。午前中はいただいた年賀状の整理と宛名書き 午後は妻と長女の3人で荒神さん参り。わずかな賽銭に万感の思いを込めて、私の選挙必 勝と高3の息子の大学受験合格を祈願しました。 ということで、今年も、平和に堀田家ははじまりました。 | ||||
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